「AI vs 教科書の読めない子どもたち」新井紀子著 (2018)


 大学院技術英語の世話人をやっていると、学生から「私、英語の討論できないです、(能力別クラスなのだが)
配属クラスを変えて下さい」といった泣き言が毎年出てくる。もちろんいちいち相手にしてられない。問題は、
「英語力」にあるのか「討論力」にあるのか?その分析はできているのか。後者を前者に責任転嫁していないか。
英語で論文を書かせるとき、直接英語で書いた方が日本語臭くならないので可能な限りそうしてもらう。しかし
初学者には無理なことが多い。そこで論文は論理性が重要だから「まず日本語で論理的に書きなさい。それから
英訳してごらん」と指導してみる。読ませてもらうと日本語の段階ですでに酷い。穴だらけ。飛躍だらけ。
誤解させる表現が満載。母語で議論する力がなければ、何語であろうと議論なんかできやしない。
 ヒトは言葉でものを考える。「この酒は美味い」ことを言葉なしに感じる人はいるだろうか。即物的表現なら
まだしも「世界大戦の前に経済不安が起こるのは歴史の常である」になると、抽象名詞の理解が必須になる。
国語の教育目標の一つは抽象語句の習得である。同様に、算数の目標は抽象語を用いた論理記述法の習得である。
小学校に英語を入れろ、情報を入れろ、と霞ヶ関は圧してくるが、枝葉に目が眩んで根幹を見失っている。
 先の日本化学会春季年会で新井紀子さんの講演をたまたま聴講した。教科書の読めない中高生という指摘では、
データをふんだんに盛り込んでいていささか衝撃的であった。大学の現場では文章の書けない学生の存在には
すでに気づいていた。なるほどそうであったか、読めないのだから、書けるわけがない。小学校教育は一に国語、
二に国語、三四がなくて五に算数、と昔の人はいいことを仰った。新井さんはさすが数学者だけあって的確な証拠
主義だ。この経験談を初めて実証した方だと言ってよかろう。教育改革の意見者として是非重用して頂きたい。

 私だったら三か四にディベートを入れる。無駄時間の「総合」に討論ゲームを課す。「血液型占いは当たるか」
「月面着陸はフェイクだ」「猥褻図画は罪か」等。題材は何でもよくて過程が重要。論駁力に加えて、傾聴力、
即断力、計画性、思いやり、民主主義、声や態度のデカい人に同調しない精神力など、多面的な訓練ができる。




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