「多摩・武蔵野凸凹地図」
「横浜・川崎・鎌倉凸凹地図」昭文社 (2021)
調布市ハザードマップを見ると、幸いなことに豪雨時に本学は安全だ。甲州街道が永く存続した理由の一つは水没を
免れた地の利にあり、実際に多摩川と野川の分水嶺に近い。同マップには狛江市も含まれていて、3m水没域として
旧野川跡が炙り出されている。狛江は「岸辺のアルバム」水害で記憶に残るところだが、旧野川と多摩川の合流点で
低地であったことが関係している。狛江で水害が頻発したため、野川が二子玉川で合流するよう付け替えられたのだった。
戦国の頃、多摩川の旧河道は現在よりかなり南にあった。江戸時代には中野島は中洲であった。調布布田と川崎布田の
ように両岸で同一の地名を持つ地域はもともと左岸側の集落だった。等々力緑地、宇奈根、下野毛、上丸子、中丸子、
平間、鹿島田東、川崎駅北を実例として、川崎側に三日月湖跡が多い。南武線の敷設のとき(大正8年)、自然堤防の
高台が鉄路に選ばれたことは想像できる。一方、江戸時代、ニヶ領用水の流路として旧河道が選ばれたであろう
ことも想像に難くない。そうすると上河原と宿河原の取水口の間が旧中洲だったと考えられる。中野島では南武線の
西側であっても水に弱い所があるのは、そこが旧河床だったためであろう。水は地形を記憶していると言われる。
中野島から下作延に居を移した私としては、溝の口の平瀬川上流の隣接集落である下作延の水防災は気になる。
溝の口とは河口という意味で、つまり平瀬川と多摩川の合流点であり、治水の弱点だ。溝の口を度重なる洪水から救った
恩人は平賀栄治である。彼は昭和15年に下作延で平瀬川を封じて津田山に隧道(新平瀬川)を設け、合流点をやや上流に
移した。その後下作延が身代わりとなって水害に見舞われたが、昭和45年の隧道増設によりそれも解決したという。
さて本論。表記の地図には川跡と水路跡の記載があって興味深い。ある古地図によると平瀬第一踏切を渡る市道
下作延146号は旧平瀬川河道であった。参照した時代が異なるのであろう、ここの旧平瀬川のトレースが欠落している。
同じ水なのに平瀬川や三沢川(排水)とニヶ領川(用水)を混ぜることなく立体交差させるという平賀の緻密な治水の
美学を思うとき、そしてかつての下作延住民の水害被害を思うとき、旧平瀬川流路の軽視は惜しく感じられるのだ。
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