「嘘と正典」小川 哲著  ハヤカワ文庫(2022)


 統一感のない短編集。時間を主題とする『魔術師』と『嘘と正典』の2篇が記憶に残る。音楽は言葉だ
という『ムジカ・ムンダーナ』も味わいがあった。ふつう短編集では推し作品が読者まちまちになる
ものだが、今回は他の読者の意見と概ね一致したので、「捨作品」も有るようだ。【以下ネタバレ注意】

『魔術師』:例えば、こんなマジックは陳腐だけどもよく見かける(この小説よりも単純化してある)。
レモンを包丁で切ったらメモが出てきて、そのメモに今行われたばかりのことが予言として書いてあった。
3通りのトリックが可能だ。[1]聴衆の目を盗んで、こっそりメモを仕込むか滑り込ませる。[2]事前に
仕込んだメモ通りの行動を実践する。[3]ホントにタイムマシンを作る。さて、読後に冷静に分析してみると、
[2,3]は最も起こりそうにないから、[1]を無条件に排除してはいけなかった。魔術師のdon’t-do三原則
を絡めて読者は巧みにストーリーに引き込まれる。不自然さを感じさせぬ話術は、流石だと思う。

『嘘と正典』:二重括弧 <<(造語)>> が登場する。その括弧の利用はその手の三流SFをパロッている
ように見えるが、実はこの形式からその手のSFを経験した読者にSFモードを意識付けし、それもアリか
と思わせるのに役立つ。読み進めてみると、CIAとKGBの暗躍や、歴史改変はできるのかという挑戦の
くだりには好感が持てる。なぜならSF色の薄い部分には<<造語>>が無く、リアリティが高いのである。
もう完全にエージェント小説である。高まる緊張の中、彼らは想いを遂げられるのか、と没入すると、
再び<<造語>>が登場して、SF色で煙に巻かれる。振り返ってみると見事な構成であったことに舌を巻く。

 全編がそうというわけではないが、SF近傍小説の新しい風を感じさせる短編集であった。



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