「屍人荘の殺人」今村 昌弘著   創元推理文庫(2019)


 かつて小欄に、ミステリーにしてもSFにしてもそれが「読める本*」であるかどうかという問いについて
『因果関係は論理的か、展開に飛躍はないか、説明が破綻していないか、要するにリアリティが高いかは、
読者が作品に没入できるかどうかの基準である』と答えた。それは昔も今も変わらない。(*個人の見解です)
 推理小説は特に論理学が顕在化したものだが、一方、奇想小説は不思議だなぁという読後感が屋台骨であり、
時として訳わからん終幕がベターである。この両者は原理的に両立できないと思われるのに、本書は見事に
それを打ち破った。ゾンビ物のくせに推理小説を謳っている。ゾンビをもっと暴れさせてもよかったかと思う。
 ネタバレしないよう駄文を書きます。小生、大学業界に長いことおりまして、中間やら期末やら入試やら、
作問の時期になると産みの苦しみを味わう。出題様式の中には多肢選択式というものがあり、予備校で伝授
される技の一つは「最も長い文章を選べ」。なぜなら記述の安全を守るために説明がクドくなるからである
(『一般に、』が入っていると怪しいとか)。出題者はそういう情報は当然持っているから、裏をかく。
同様に、推理小説の犯人当ての技の一つは、「最も目立たなかった登場人物を選べ」。理由はいわずもがな。
しかし作家もその裏をかいてくる。結局、悪漢と探偵の戦いは、作家と読者の戦いに置き換えられる。
 予備校の先生はこう言い放った。国語で得点したければ、「本文とは戦うな、出題者と戦え」。登場人物は
ここで何を思ったのか?という設問を真に受けるな。出題者がその解答欄に期待していることを書け。私は
その達観に触れて、学問として教育として、国語に虚無感を覚えたのだった。





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