「南武線いまむかし」原田勝正著(1999, 多摩川新聞社)

 私が毎日の通勤でお世話になっている南武線と京王線は実はどちらも関東大震災(大正12)に関係
している。震災復興のために、その頃のセメントと砂利のビジネスは想像を絶するものがあったようだ。
 現在京王閣となっている場所は当時多摩川砂利採取場であり、京王電軌は新宿方面へ砂利を運搬した。
上流の多摩競艇場や、府中郷土の森公園も採取場であった。是政の西武線は前者への貨物線の名残
(当時は多摩鉄道)。後者には南武鉄道(現南武線)支線があった(現廃線)。省線も国分寺から下河原線
を運用していた(廃線)。京王相模原線は砂利貨物線から旅客線転換できた成功事例の一つなのである。
 南武鉄道は下流にも砂利採取場を持っていた。宿河原駅付近の廃線跡は多摩高校付近のゆるやかな
Rを描く車道で辿ることができる。中野島にも支線があったという記録がある(多分カリタス学園辺り)。
小田急は相模川の砂利の販路を川崎に求めて、一時期登戸に連絡線を敷いた。中野島には6年間
住んだのだが、中野島と登戸の廃線跡は、現地を歩いてももはやほとんど判別できない。
 南武鉄道の歴史は石灰石運搬とも深く関連する。浅野財閥は京浜工業地帯の生みの親であり、埋め
立て地に数々の企業を誘致して、鶴見臨港鉄道(現鶴見線)を経営した。青梅の石灰岩に着目した
浅野セメントは、川崎-立川という南武鉄道計画路線が石灰石の輸送路にうってつけであると見るや、
株式の大半を取得し、ほどなくして青梅電鉄(現青梅線)と五日市鉄道(現一部五日市線)も傘下に
おさめ、一貫流通を実現した。浅野はさらに石灰鉱山を求めて奥多摩電気鉄道(現青梅線)を設立
するも、開通と同時に戦時買収され省線となった。元五日市鉄道の拝島-立川間は戦後に廃線となった。
 廃線やつわものどもが夢の跡


「南武線物語」五味洋治著(1992, 多摩川新聞社)

 南武線の昨今の通勤線としての混雑ぶりを考えると、車両が6両に留まっていることは真に残念で
ある。ホーム長の整備不足のためである。複々線部分がないのだから快速を運行してもまるで意味が
ない。戦後に民鉄に戻しておいた方が良かったのではないかと思うとき、南武鉄道の悲哀について
まことしやかに語られるのが東京横浜電鉄(現東急電鉄)との確執である。
 東横電鉄社長五島慶太は、武蔵小杉の立体交差に不満があったという。先に路線免許の下りた側が
地べたを走るわけで、その方が格上とみなされたのである。事実は南武鉄道の免許の方が先だったのだ
が、五島は一歩も引かず、その結果両線が開通時に平面交差するという危機的状況となった。運輸省が
仲裁に入り、東横が高架となった。その後、東条内閣運輸大臣となった五島は戦時のどさくさで、京急、
小田急、京王を合併して大東急を発足させた(戦後にコンツェルン解体で合併は解消)。一方で南武鉄道
およびそのグループ、青梅、奥多摩、五日市、鶴見の各鉄道を国に戦時買収させた。これらは戦後民間に
払い戻されることはついになかった。南武線ファン(?)は、これは強盗慶太の仕返しであると信じている。
1990年頃川崎都市計画事業で武蔵小杉の南武線も高架になった。過去のわだかまりはもうないと思う。
 本書は鉄分の多い方のためだけのものではありません、きっとどなたも近代日本史にも興味を持つ
ことでしょう。五島は、児玉誉士夫、田中角栄、笹川良一、正力松太郎、、、と並ぶ昭和史のキーマン
です。田中一族の越後交通は一時期東急グループに属しており、角栄は五島から薫陶を受けたという。
土地を買って、線路を敷いて、値段を上げてから土地を売る。規模を大きくしたのが列島改造論。




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