「猫を抱いて象と泳ぐ」小川洋子著(2009)
成長を嫌った主人公にしても、超肥満マスターにしても、どこか鬱屈した老人にしても、風変わりな
キャラである。ボビー・フィッシャーがこの分野の標準というわけではあるまいに、チェスプレーヤーを
聖人君子おまけにハンサムとして描いてほしいのだけど。。。(これは作家の皆様への要望)
題材は実在したチェス機械「トルコ人」に依っている。それを現代へ移設したらどうなるか。当時は
マジックであったわけだが、現代ではチェスコンピューターもロボットも実現されている。現代に
イリュージョンは難しい。だから逆に人間が入っているという種明しをして、物語は浮遊を始める。
さて、小川の取材はなかなか緻密だ。例えば、取った駒で対局時計のボタンを押す、という描写は、
経験者ならニヤリとするところ。時計を押す手は駒を持つ手と同じでなくてはならないので、早指しでは
駒を置く時間も惜しく、駒で時計を叩く。エキサイトしてくると対局時計のガラスにひびが入るわ、
駒は折れてはじけ飛ぶわ。。。そんな細部にはリアリティが高いのに、全編はお伽噺感で覆われている。
日本では公園の賭けチェスは見ないし、老人ホームの娯楽はせいぜい麻雀だから、本書の舞台は
国籍不明となる。現代劇ファンタジーとして見たら、むしろその方が良いのかもしれない。
先日、ミッシェル・ペトルチアーニのドキュメンタリー「情熱のピアニズム」を見た。イタリア系フランス人の
底抜けに明るい青年であって、引きこもりとも無口とも全く無縁である。低身長や異形の象徴する
ものは我が国とは違う。ヨーロッパの町中では車椅子の方は日本で見かけるよりもずっと多い。
皆が日向を歩けることが福祉の本質なのだ。私が本書の登場人物、祖父か祖母か老令嬢だったら、
こう言っただろう(違う展開になってしまうが):リトル・アリョーヒン君、駒を捨てよ、町へ出よう。
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