「濹東綺譚」永井荷風著 (1937、岩波文庫)


 当時の新興私娼街である玉の井の風俗が客の目線で描かれている。初老の主人公はなぜ夜な夜な女の所へ
通うことになり、そして離れることになったのか。年齢が近いと感情移入して読んでしまう。多くの男に接する
身でありながら「どういう訳で初めて逢った日のことを覚えているのか」と主人公はよろめく。接客業は客を
覚えるのが仕事。この程度の世辞で男は落ちちゃうんだな。女目線のスピンオフ物語も書かれたら面白かったのに。
 お雪のいる銘酒屋は「去年頃まで京成電車の往復していた線路」と蚊の多い「溝掘」の傍にあった。古地図
と照らし合わせると楽しい。地元民だけの読み方かも?まぁちょっとお付き合い下さい。曳舟、寺島、向島、
鐘ケ淵、長浦、木下川という地名は水際の名残。牛島堤下流の旧隅田川(旧本所区/向島区の境)や曳舟川は
当時まだ水路であった。しかし「溝掘」とは距離が離れて過ぎていて関連なさそう。地図に載らないドブも
多かったに違いない。作品中ではお歯黒溝の一本外れの溝だそうだ。それから京成白鬚線の運用は僅か8年間
だけども、鉄路や玉の井駅の所在は特定できる。宮脇俊三著「鉄道廃線跡を歩くIX」(2002、JTBキャン
ブックス;p.89-92)はさすがによく調査された報告である。濹東軌譚も参考になる。京成は東京側で押上駅が
終点である不便を解消したく、東武のように浅草起点を目指した。ほどなく上野公園線を開通させると、
白鬚経路を断念することとした。一見して上野線も盲腸線だが、京成には既存の銀座線と丸の内線のトンネルを
乗っ取って東京駅へ出る野望があったらしい。うむ、これこそ奇談かも。「綺譚」は荷風の造語だそうだ。



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