書評の意図するところ


いい歳をしたサラリーマンが通勤電車でマンガ雑誌を読みふけっている。マンガでないときは
携帯ゲーム機(しかも多くの場合イヤホン付き)に熱中している。この歳になってマンガや
ゲームより面白いものに出会わなかったのかしらと気の毒に思う。精神の幼態成熟と見られる。

アミューズメントはもちろん必要だ。これらが日本発の文化の一端を担うという意見も
肯定する。私が気になるのは満員電車の中でもやらなくてはならないことなのか、歳相応
として恥ずかしくないのかというオトナ感の欠如である。学生時代は、文化を楽しむ
時期であり、人格をファイナライズする時期である。私は文化の三大チャンネルたる
「本」「音楽」「映画」を肌身離さず持ち歩くべきだという信念をもち、今でも学生に
それを勧めることにしている。いろいろと面白いものに出会える。喜びが増えてその後の
人生を豊かにする。しかしこの論法は説得力が弱い。「本を読まないのは好き嫌いの問題
だろ。俺の勝手だろ」と反論が聞こえてくる。ここでひとつ説教しておきたい。

社会にかかわる年齢になると、政治、経済、宗教、科学技術の意義に必ず直面する。
これらを論じるための素養は社会人の前提になる。友人の中には、野球や麻雀の話を
する人も多いだろう。しかし、野球や麻雀の話「だけしか」できない人は真の友には
なれない。真の友は人生や政治や世界観を語り合える相手である。語れるためには自分の
意見を持つべきである。それにはまず多くの人の考えに耳を傾ける、人の論文を読んでみる。
それから考える。活字から入ってくる情報は大変に豊かで、一般に内容も表現も高品質
である。おまけに読解は論理的思考の鍛錬になる。冷静な文体は理性的言動の鑑になる。
新聞を読む若者が減っているのは残念である。新聞の情報量は一般にテレビの比ではない。
三大チャンネルと言ってみたが、実は活字媒体がとりわけ重要である。

精神年齢の成長とは何だろうか。赤ん坊からシミュレーションしてみればわかるように、
始めは自己中心、無責任が典型的である。社会に目を向けて初めてそこから脱却できる。
社会性を身につけることは、人間社会が定めた大人への切符である。できなければ赤ん坊
のままである。幸いなことに小説や映画によれば、いながらにして多様な社会や人格を
疑似体験できる。探偵に、社長に、乞食になれる。親にも子にも恋人にもなれる。旅も
できる。異文化も礼儀も口の利き方も教えてくれる。社会・文明評論を読めば、直ちに
社会勉強の教科書になる。自然に社会性が身につく。野村克也氏が読書の重要性を説いて
いることは有名だ。彼は立て板に水の如くしゃべるわけではないが、話させると面白いと
いうことを多くの人が評価している。自分の考えを持っているからである。ところで、昨今の
若者のコミュニケーション能力不足が指摘されている。彼の例は、対話の技術面よりも、
話題の広さ、思慮深さ、自分の意見を持つ能力等の涵養が本質的であることを示している。

社会性とコミュニケーション能力はバーチャルなゲームの世界や虚構ばかりのマンガに
よっては決して身につかない。だから、これらに耽っていると駄目なのだ。個人の嗜好だ
とか言い訳してはいけない。「個性の尊重」と「自由放縦」とは違う。活字媒体に疎い
方は、本、新聞、雑誌に興味を持つように意識改革しなさい。これは教育者としての
私からの命令である。さしあたり「書評」はそのきっかけにでもなればいいと願う。




  • ブラウザの「戻る」で戻ってください。